一章.八話
<<前のページへ  l  トップへ  l  次のページへ>>

 ――目を覚ますと俺の鼻先数センチの所に男の顔があった。

 男の顔は徐々に俺の顔に近づきつつある。

 悩ましげに目を瞑り、口を半開きにして俺の口に迫っている。

 男の顔は恐ろしく濃く、髭を剃った後の青々しさが、妙に生々しい。

 えっと。

「俺にそんな趣味はなーい!」

 思い切り俺に顔を近づけてきた男の腹を蹴り上げる。

 入学そうそう男に愛されてしまったのか!?

 男は何事も無かったように立ち上がり、にぃっと笑う。

「いったい何を?」

「人工呼吸だ。君が背負っていた女の子が溺れて君の首を絞めていたんだよ」

 そう言えば聞いたことがある。

 溺れている人間はパニックに陥り、救助者に危害を加えることがあると。

「あれ? その子は?」

「ショックで気絶してしまったよ」

「まさか、紀美に人工呼吸を?」

 それは、ショックで気絶するだろう。

 俺の知る限り紀美はまだファーストキスをすませていない。

 それが、こんな顔の濃い中年だったとしたら……。

 俺だったら決して耐えられない。

「いや、彼女は目を覚ましていたよ。君と私が人工呼吸をするのを見て気絶したんだ」

「なんですと!?」

 そっと唇を人差し指でなぞる。

 ぬるっとした感触が確かにあった。

 俺のファーストキスはこの男に奪われたらしい。

 ふと、周りが騒がしいのに気が行く。

「……」

 俺とこの男を何人もの生徒が青い顔をして見ている。

 きっと今日から俺はホモとかなんとかいわれるに違いない。

 入学初日からなんだっていうのさ。

 すっと、俺の頬に一滴二滴と涙が走る。

「あれ……」

 次々と溢れてくるそれを俺は止めることが出来なかった。

「なんだ。そんなに良かったのか?」

 その瞳で男をみると頬を紅くしていた。

 もういやだ。

「馬鹿ヤロー……」

 俺はその場にその一言を吐き捨て走り出した。

 もう、この場にいたくない。

 後ろからやつの声が聞こえてくるが俺は足を止めない。

 ふに。

 次にぐしゃ。

「痛い!」

 涙で視界が覆われ前がよく見えなかった。

 誰かとぶつかってしまったらしい。

 その誰かもろとも床に打ち付けられた。

 よろよろと立ち上がる。

「大丈夫?」

「ちょっと早月! 何処に目付けてるのよ!」

 紀美だった。

 ああ、あの『ふに』はこいつのか。

「って。あんた何泣いてるの?」

 こいつは鬼だ。

 そもそも俺が薔薇な世界に踏み込んだのは全てこいつのせいじゃないか。

「お前のせいだ!」

 俺は再び走り出す。

「早月!?」

 もう、俺を止めないでくれ!

 頼むから独りにしてくれ……。


七川早月瀬本紀美

<<前のページへ  l  トップへ  l  次のページへ>>

2006/08/06(日)